曹洞宗の大本山永平寺の客膳料理に「菊花昆布」という江戸時代から伝わる逸品がある。これは、昆布で象った菊の花を素揚げにしたもので、掌にあまる大輪の華やかさと上質昆布のおいしさが参禅客たちに好評の品だ。
この細工昆布を納めているのが、地元敦賀の永平寺御用達の昆布商、奥井海生堂である。四代目にあたる主人、奥井隆さんにはじめてお会いしたのは、もう五、六年前のことであった。
海生堂には、他にも太白おぼろ昆布という真昆布を手削りした、羽二重を思わせる洗練の品があり、私はこちらとの縁がずっと古かったのだが、店を訪ねた折、さらなる「大物」を紹介されたのである。
北陸第一の港である敦賀は、奈良時代からの名で呼ばれ、大陸(渤海)と畿内(京都)を結ぶ港として、また北前船の要衝地で米や昆布の集散地として繁栄した。海路の昔は、日本海側こそが国際貿易や国内流通の表舞台だったのである。ところが江戸時代(寛永年間)、西廻り航路(出羽―大阪)の開通によって、北前船は直接大阪に届くようになる。敦賀は多大な打撃を受けたが、昆布商はこれを機に昆布の加工に活路を見出したのだという。京都からは雅を、長崎からは料理の刻み昆布の製法を取り入れるなど、昆布に付加価値を付けることによって再び隆盛を取り戻したのである。今日もおぼろ昆布の八十五パーセントは、敦賀で生産されている。
ところで、件の大物とは利尻昆布である。
海生堂の蔵には、二十キロずつ昆布の大束が段ボール箱に収まり、さらにむしろで覆われ、山と積まれてあった。筵の上には「平成三年度一等検」「平成八年度香深一等検」と収穫年号が記されている。
そのひとつ、平成三年物の包みを開いた。当時すでに十年近い年月を経たその昆布は、渋い黒光りを放っていた。何よりも匂いが違う。新物昆布の磯臭い匂いとはまるで異なる、甘くかぐわしい熟成香。しかもそれは重く沈んだものではなく、弾むような、透明な香りだった。
ひんやりとした蔵のなか、私はまるでワイン蔵に入ったような心地で、奥井さんの話に聞き入った。
夏、北海道で採取した昆布が敦賀に届くのは秋も深まる頃だ。しかし雪深い北陸では冬季、荷が運べない。昔は、その間昆布を土蔵に保存したものだという。すると春の出荷の頃、昆布はいちだんとうまみを増していたのである。
しかし、昆布は高額である。半年間寝かせるとなると資金的な問題も生じる。また交通事情もよくなり、冬季でも出荷が阻まれることも無くなった。かような事情から、昆布を蔵で囲うという手法は徐々に廃れていった。
約二十年前、店を継いだ奥井さんは、先代が一部わずかに伝承していた「蔵囲」手法を本格的に復活させたのである。昔の土蔵では梅雨時の管理に難があることから、土蔵に倣った近代蔵を建て、温度・湿度・換気を自動的に管理する。筵の覆いで外気や光を遮断するのは昔のままだ。蔵囲の期間も、少なくとも一年間、さらに二年、三年と熟成のうま味を追求した。
ところで、香深とは北海道・礼文島にある極上利尻昆布の産地名である。
利尻・礼文は、潮の流れや水温、豊かな森や河川など、上質の昆布が育つ理想的な自然環境がそろっている。古来「良い昆布は森が育てる」といわれるほど、森や河川は良い漁場に不可欠の条件だ。その上、海岸が長く、朝日の射し具合も昆布干しに最適である。ここは、今日なお、昆布をすべて天日干しにする稀少の産地なのである。
奥井さんが夏、利尻・礼文を訪れるようになったのもこの四半世紀来だそうだが、どうやら利尻昆布との出会いが蔵囲への情熱を後押ししたようだ。というのも、採れたては他のどの産地よりも強く荒々しい利尻昆布は、蔵囲で熟成させることによってうまみが増す度合いも大きいのだ。しかも上質であればあるほど熟成の成果が顕著だ。かくして、四段階の等級がある利尻昆布のなかでも最高品質の一等検が海生堂の蔵に入る、ということになる。
今年の夏、私も念願の利尻島・と礼文島・香深を訪ねた。両島には全部で六カ所の収穫浜があるのだが、なかでも香深は、別格浜と呼ばれるほどの極上昆布の産地である。
ずっしりと持ち重りのする二メール半もの天然利尻昆布を手にした私に奥井さんは、「われわれが昆布を見る時も『走る』ものを選びます。走るとは勢いがあること。成長盛りの痕跡があることなんです」。
目を瞠るばかりの勇ましさ、壮観さだ。
昆布は実にワインに似ている。繊維質が硬くだしが濁らないため、最高級だしの筆頭、利尻昆布、多少濁るがこくのある羅臼昆布、煮物に適した日高昆布など、産地(テロワール)によって種類も味もまるで異なる。また同じ利尻でも収穫浜(ドメーヌ=畑)によって違うし、年(ミレジム=製造年)による質の差異も少なくない。加えて蔵囲(シャトー)。香深では、平成十六年産蔵囲二年物と平成十八年産蔵囲無しの各の試飲(デギュスタシオン)をしたのだが、色を愛で、香を聞き、うまみを利く、それはまさにワイン。
二年生育昆布しか採らない取り決めの利尻昆布は、葉の色や艶、幅、重さ……などによってさらに厳密に等級の査定を行う。天然物だけに小さな穴傷はありがちだが、一等級には些細な傷も許されない。穴傷といえば、二メートル以上もの壮大な昆布の中央に大きな傷があった。何と、ウニが食べたのだと。利尻のウニは昆布が好物、しかも上等の昆布を見分けるグルメだそうだ。それだから利尻のウニはおいしいというべきか、ウニも昆布も好きな私は複雑な気持ちだった。
ワイン党で、若い頃、パリ長期滞在の経験を持つ団塊世代の奥井さんは、この秋、パリの日本文化会館や料理学校コルドン・ブルーなどでフランス人を対象に昆布の講演会を行った。昆布を家畜の餌としか捉えていなかったフランス人の間でも昨今は日本語のkonbuがそのまま通用し、料理人をはじめ一般の人たちの関心も高まっている。産地別の昆布水のデギュスタシオンや昆布料理の試食も人気を博したそうだ。
利尻・礼文の旅以来、わが家でも、吸物にコンソメに、と和洋を問わず、蔵囲利尻昆布の出番がめっぽう増えている。